レムリアの風の女神

レムリアの風の女神

あの丘に

登って受けた海風を

忘れない

登る朝日に照らされ

満天の星空を見上げ

全てにおいて

調和して

豊かな私達の

生命の祈り

レムリアの風に

まおあきこ

レムリアの響きに惹かれます。

動物や植物と

調和した時間が

流れていたという

レムリアを

心に響かせながら

秋分の日

ですね。

さて、

糸島市志磨小金丸

実りの森さんにて

クロノアユミさん

著書ボイジャータブレットの秘密

出版記念トークライブ開催12時30

に向けて、静かに熱いです。

日は奇跡のシンクロに響き愛に輝いて

いつもありがとう

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まおあきこ

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鮎掛け7回目

こんにちは

朝方雨が降ってたけど、天気予報を信じ

友人と鮎掛けに行ってました

08:20分頃自宅を出発

友人とは現地合流

⇓

09:04分

右は友

左は知人で雨降りの中、6時前から合羽着て

鮎掛けしてたと

釣果5匹

今日こそはと、心に秘めた想いがあります

今まで6試合して、僅か1匹

・・

11:06

いつもは爺の上流でやるのに

今日は下

掛けてました

12:29分

帰宅してから

一番上は20㎝チョットでした

今日は掛けましたょ〜

チョ〜〜嬉しかったでぇ〜す

本当は「つ抜け」が出来るかと思いました

やっとこれだけ

肩が痛いので

寝る前にサ○ンパス貼って寝よう

第2回回答兼刷還使三使紹介 ( 社会教育 )

第2回回答兼刷還使三使紹介

2018年9月22日

 第一次は、家柄と賢さを考慮した使節団であったと思われる。第2次はそれを受けて贈られた使節団である。かれらは、前回の刷還使が連れ帰った被虜人についての処遇を示した

朝鮮国礼曹俘刷還諭告文を持参している。

朝鮮国礼曹俘刷還諭告文原本写真

翻刻

「朝鮮国礼曹為通諭事

国家不幸猝被兵禍八路生霊陥於塗炭其僅免鋒刃者又皆係

 累迄今二十余年矣其中豈無思恋父母之邦以為首丘之計而

 未見有襁負道路而来者此必陥没既久無計自出其情亦可

 憐也

国家於刷還人口特施寛典丁未年間使臣率来被虜人口並令免

 罪至於有役者免役公私賤則免賤完復護恤使之安挿本土其

 所刷還之人亦皆得見親党面目復為楽土之氓在

日本者亦必聞而知之矣況今

日本既已殲滅我

国讐賊尽改前代之所為致書求款

国家特以生霊之故差遣使价被擄在

日本者生還本土此其時也若一斉出来則当依往年出来人例

 免賤免役完復等典一一施行諭文所到劃即相伝依諭文通

 告使价之回一時出来庶無疑畏遷延免作異域之鬼事照験施

 行須至帖者

 右帖下被擄士民准此」

書き下し文「朝鮮国礼曹、通諭の事の為にす。

 国家不幸にして、猝かに兵禍を被り、八路の生霊、塗炭に陥つ。其の僅かに鋒刃を免るる者も、又皆係累して今に迄るまで二十余年なり。其の中、豈に、父母の邦を思恋し以て首丘の計を為すこと無からんや。而も未だ道路に襁負して来たる者有るを見ず。此れ必ずや、陥没すること既に久しく、計として自ら出づる無きならん。其の情、亦た憐れむべきなり。

 国家の人口を刷還するに於けるや、特に寛典を施す。丁未年間、使臣、被虜人口を率ゐ来り、並びに罪を免かれしむ。役有る者は役を免じ、公私の賤は則ち賤を免じ、護恤を完復し、之をして本土に安挿せしむるに至る。其の刷還する所の人、亦た皆、親党の面目を見、復た楽土の氓と為るを得。日本に在る者も亦た必ずや聞きて之を知るならん。

 況んや今、日本は既已に我が国讐賊を殲滅し、尽く前代の為す所を改め、書を致し款を求む。

 国家、特に生霊の故を以て、使价を差遣す。擄されて日本に在る者、本土に生還するは此れ其の時なり。若し一斉に出で来れば、則ち当に往年に依るべし。出で来る人は、例として賤を免じ役を免じ、完復等の典、一一施行せん。諭文の到劃する所、即ち相ひ伝へ、諭文の通告に依りて、使价の回るに一時に出で来れ。庶はくは疑ひ畏れて遷延すること無く、異域の鬼と作ることを免かれよ。事は験に照らして施行し、須らく帖に至れ。右帖下の被擄の士民、此を准す。」

以上http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-32.html#05 明清楽資料庫より引用

丁未の年(1607)、十年前に刷還した人々の処遇を述べている。「国家於刷還人口特施寛典丁未年間使並令免罪、至於有役者免役、公私賤則免完復」とある。(6〜8行目)

書き下し文

「国家の人口を刷還するに於けるや、特に寛典を施す。丁未年間、使臣、被虜人口を率ゐ来り、並びに罪を免かれしむ。役有る者は役を免じ、公私の賤は則ち賤を免じ、護恤を完復」

「朝鮮被虜人と殉死」九州大学服部英雄教授論文より解説を引用します。

「日本にいた人々は罪人であり、役があったし、賤民に落とされている場合もあった。被虜人が「罪人」であるというのは、日本に住んでいること自体が日本に協力した罪であると見なされたからだ。そういう意味だと考る国家に反逆し、自らの意志で日本に行っとみなされた。日本側(豊臣軍)も飴と笞で懐柔し、強要した。飴を舐めた人もいたのであろう。豊臣軍の引き上げに際し、戦争協力者たる親日派とされるから、朝鮮にはいられず、に亡命したのではないか。朝鮮国からすれば罪人だったが、帰国すれば罪を許すとしている。「罪」があるから、それを償う「役」(しごと、義務、懲役)があった。朝鮮国に戻れば役(懲役)が待っていた。」

 このような状況で帰国したいと思わないと考えますが、王朝役人の考えは違うようです。

使員の紹介をしたい。 

「大河の釣り人」HP 1617年回答兼刷還使より引用

 正使 呉允謙  (ブログ著者註  『瑣尾録』呉希文が旅行中に秀吉の朝鮮侵略ありさまを日記として書き残した。著者・呉希文の長男が呉允謙)

1559(明宗14)〜1636(仁祖14)。朝鮮中期の文臣。本貫は海州。字は汝益、号は楸灘または土塘。

1.家系と出仕

繕工監役?希文の子供で成渾の門人である。

1582年(宣祖15)司馬試に合格した後、1589年殿講で壮元になり英陵参奉・奉先殿参奉を歴任した。

2.官職

1592年壬辰倭乱が起こるや両湖體察使鄭?の従事官に抜擢され、侍直を経て平康県監に5年間奉職し、1597年別試文科に丙科で及第した。

県監を辞めた後、一時結城に寓居してから、弘文館副修撰・吏曹佐郎・知製教・副校理を歴任した。

1602年罠にはまって苦境に立った師、成渾を弁護してから時論の排斥を受け鏡城判官に黜補され、その後7、8年間安州牧使・東莱府使などの外職を転々とした。

このような渦中でも安州城の築城を担当し、北道巡按御史として咸鏡道の民弊を調査することもした。 1610年(光海君2)ようやく内職に戻り戸曹参議・右副承旨・左副承旨などを歴任して、当時の権臣である鄭仁弘が李彦迪と李滉の文廟従事を反対、士林と対立するやこれを弾劾して王の気に障ることになり江原道観察使に左遷された。

1年余り観察使に在任する間、饑民を救済し、一方では寧越にある端宗の廟を修築し、その祭礼手順と各邑からの祭需工面方式を訂正し以後これを準用させた。

再び中央に戻り僉知中枢府事なったが、執権勢力である北人の跋扈で癸丑獄事が起こるなど政界が混乱するや、年老いた親の奉養を口実に広州牧使を志願した。

1617年再び僉知中枢府事になり回答兼刷還使の正使として随員400名余りを率いて日本に行き、壬辰倭乱の時捕らえられた捕虜150名余りを刷還したのだが、この時から日本との修交が再び正常化した。

1618年廃母論が北人により提起されるやこれを反対、庭請に参加せず、これにより弾劾を受けるや官職を辞めて広州ソンヨンハの土塘に退き災いを避けた。

1622年明の熹宗の即位を祝賀するための賀極使に選抜され、陸路が後金により閉鎖されたので海路で明に赴き、その功で右参賛に昇った。

翌年仁祖反正が起こるや大司憲に任命され、つづいて吏曹・刑曹の判書を満遍なく歴任した。

特に、北人南以恭の登用問題で西人が老西・少西に分裂される時金・金尚容などと共に老西の領袖になり、南人・北人の均一な登用を主張、民心の収拾を図った。

1624年(仁祖2)李适の乱が起こるや王を公州まで扈従した。つづいて礼曹判書・知中枢府事を経て、1626年右議政に昇った。

翌年丁卯胡乱が発生するや王命を受け慈殿と中殿を奉行し、まず江華島に避難し、還都後、左議政を経て1628年70歳で領議政に至った。

この時、老西・少西間の対立と葛藤が激しくなるやこの仲裁に力を注ぎ、特に経筵で政治革新のための王の覚醒と性理学での専念を促した。

翌年仁祖の生父である定遠君を元宗に追崇し、また??しようとする論議がおこるやこれに反対し領敦寧府事に退いて1633年左議政に再任され耆老所に入った。

仁烈王后(仁祖妃)の喪で?護使として過労したあまり病をえて亡くなった。

3.業績と評価

礼論に一見識を持ち、特に仁祖生父の追崇と祔廟論において宣祖の王統を引き継いだ仁祖は宣祖がたとえ祖父であることは一?廟(父の祠堂)に該当するので王でない大院君(仁祖の生父)を?廟にすることは例にはずれることだということで祔廟反対論の論理的根拠を立てた。

外職にいながら平康県と鏡城府の民弊を治め善治守令として名声を得、中央官としては温雅端粋し公正な姿勢を堅持、周囲の嘱望を受けた。

晩年に宰相の地位に10年余りの間いる時、百姓の便宜のため沿海貢物の作米と大同法の施行を推進し名分論の反対を退けることまで庶孽の登用を主張し、さらに士林を大事にし保護することで賢き宰相と呼ばれた。

しかし全体的にみると経済的才能が不足し、時弊と王の過ちを直言する気概が足りず、平素の期待に添うことはできなかったという。

また徳業の修養にだけ力を注ぎ、詞章には思いをおかなかったがその文章は平易でありながらも条理があり、詞は澄みながらも韻律に外れることがなかったといい、成渾門下の代表的人物として数えられている。

李貴・鄭經世・李?・金などと交友し、特に李貴とは同門修学で母の実家に??があり、壬辰倭乱の中で親交が篤かった。ただ、後に老西・少西の対立で李貴が少西の領袖になり追崇を積極的に推進するやひびが広がった。

亡くなる直前、流言で朝廷に謚号を請うことをやめ、神道碑を建てられなかったが、1663年(顕宗4)忠簡という謚号が贈られた。広州の亀巌書院に配享され、平康の山仰齋影堂に祭享された。

著書には詩文と疏箚を集めた《楸灘文集》をはじめ《東槎日録》・《海槎朝天日録》などが伝えられている。

副使 朴

1564(明宗19)〜?。朝鮮中期の文臣。本貫は高霊。字は子貞。大容の子供で、判書楗の弟である。

1602年(宣祖35)別試文科に乙科で及第し、1606年監察、翌年工曹佐郎になった。

1609年(光海君1)には正言になり、つづいて成均館直講・文学を経て、1612年持平、翌年司書に、つづいて掌令になり、1614年には執義になり弼善を兼ねた。

1615年弘文館副応教につづいて司諫になり、金悌男の獄事を治めた功で弓子1丁を下賜された。

1617年正使呉允謙とともに回答副使として日本に行き、壬辰倭乱の時捕らえられた被虜人150名を連れて帰り、この時から日本との修交が正常化した。

1618年行護軍になり、つづいて江陵府使を歴任した。

従事官 李景稷

1577(宣祖10)〜1640(仁祖18)。朝鮮後期の文臣。本貫は全州。字は尚古、号は石門。定宗の八代孫で、同知中枢府事惟侃の子供である。

李恒福と金長生の門下で修学した。

1601年(宣祖34)に司馬試に及第し、進士になり、1605年に殿試に合格し承文院権知副正字に昇った。以後1609年(光海君1)に承文院注書兼侍講院説書、1610年に弘文館正字・奉教、翌年に典籍・戸曹佐郎・修撰・兵曹佐郎兼知製教などを歴任した。

1613年兵曹正郎に昇進したが李爾瞻が勢力を得、いわば癸丑獄事を図るやこれに連座した徐渻と親交があったという理由で輸城察訪に出向して罷職された。

その後黄海道都事に復職し、再び兵曹正郎になり接伴官・賑恤従事官・平安道敬差官などを兼ねた。 1617年には呉相允とともに日本に回答使として赴いたこともあった。

1618年廃母論が起こったとき、これに反対し辞職して、約5年間故郷で過ごした。以後1622年明将毛文龍が椵島に駐屯するや彼は白衣従軍し、すぐに鉄山府使になり毛文龍の信任を得て仁祖反正以後刑曹参議・義州府尹になった。

さらに李适の乱が起こるや全羅道節度使として礪山に駆けつけ兵士を集めて反乱軍鎮圧に力を注ぎ、その功で嘉善大夫に品階が上がり水原府使になった。

1626年(仁祖4)に副総管・掌隷院判決事を経て兵曹参判兼同知義禁府事・都體察贊画使・備辺司有司になった。

1627年丁卯胡乱のときは兵曹参判として王を江華島まで扈従し、講和が成立する時接伴使として活躍、還都以後戸曹参判になった。

1629年都體察副事として毛文龍の兵機を把握することに努力し、戸曹参判・京畿道観察使を経て、1634年都承旨になった。

1636年丙子胡乱の時は副護軍で備辺司堂上を兼ねて南漢山城まで王に扈従し、和議が成立した後戸曹判書になったが領議政金との不和で一時停職されて再び同承旨・江陵府使・同知中枢府事兼??総管を経て、1640年に江華留守にあるなか病で亡くなった。

官僚として才能があり、品位が俊秀で、特に詞賦と字に優れていた。左議政に追贈され、謚号は孝敏である。

 今回の回答兼刷還使は、京都にての新装二条城での将軍との対面であった。

 刷還は、大変に難しい状況になっていた。下の従事官李景稷著「扶桑録」の記録を参照されたい。(刷還の文章を幕府が出している。本多上野守正純)

 日本側が鳥銃や刀剣の贈り物をする(光海君9年元和3年10月10日条

「義成送鳥銃六柄、槍六柄、長劍三口、層函三部、懸?三部于三使臣。鄭、朴兩譯則丹木六百斤、懸?二部、層函部。崔、康兩譯則丹木四百斤、懸?二部、層函二部。各員等。丹木千斤。各役等。丹木千斤送來。使之分取。調興送鳥銃六柄、圓鏡六部、鏡臺三部、鑞盆六部、圓盤六竹。鄭、朴兩譯則丹木四百斤、圖盤二竹、層函二部、鑞盆四部、鏡子四部。崔、康兩譯。則丹木二百斤、層函二部、鑞盆四部。各員役等。丹木各五百斤。橘智正送鳥銃各二柄、神煸爐各二部、柄鏡各二面於三使臣。幷固辭却之。堂上譯官以下所贈之物」)のは前回の使節団が「鳥銃・刀剣の輸入」許可を家康に求めたのを分っているからと思われる。(海槎録「慶長12年6月8日条」

「日本曾有他國人潛買兵器之禁。平調信生時。稟於家康曰。朝鮮欲貿鳥銃環刀等物。未知許否。家康曰。當戰則戰。豈可與無兵之國。較其勝負哉。況隣國欲買。則如何相禁云。故今此所貿兵器。略無禁防。人爭賣買。」参照)

参考 刷還関係記録(希望帰国・帰国拒否については次回に)帰国人数減は、前回の帰国後の配慮不足が関係あるのかもしれない。

光海君9(1617)年

9月1日語曰。前者日月不久。願歸者甚衆。主倭等據執不送。刷還者甚少。今則歲月亦深。願歸者雖多。每諉以男婚女嫁。阻攔不送。必甚於前。將軍若不下悉歸之令。則朝廷之委遣使臣。欲以信義相交之意者。果安在哉。況今各道諸將齊會。若一下令。使諸將各差差人。籍還被擄人。交付使臣。取還公牒。以憑虛的則甚好。自爾祖爾父。受國家厚恩。今汝若不致力於此。則非但墜乃祖父之功勞。朝廷將以汝爲何如也。爾須十分盡力周旋。興曰。當奉而周旋。但行次所經處。則令下便可發還。至於深處。勢將不及云。

2日  有被擄人晉州居河魏寶之子河愃者爲僧人。來謁館下。適是左議政稱念中人。譯官等喜其相逢。細陳其父母消息。仍言關白已爲下令刷還之意。問其居住寺刹。則囁嚅不言。聞其父母之言。略不動念。諉以明日更來。一去無形影。情狀極可惡也。

光州居柳玹之子命環。自大坂。持梁千頃子夢寅、夢麟等及前日通書愼向等女子與其妹惠蘭書幷三道而來。愼向女子等書。卽前書中願歸之意也。惠蘭書亦其意也。夢寅等書略曰。奉母携弟妹。保全無恙。遠流絶域二十年。夏之日冬之夜。暫刻之間。不忘歸國之情。虎口難遁。至今不遂其意。慚愧慚愧。願?恩?。欲歸故國云云。招問命環。則答曰。脅板中書年。傳授其任於厥子。厥子換授信濃州。將赴其地。中書則將永居倭京。提携眷屬。來到大坂。將軍在伏見城。故不得入來。姑爲遲留。命環母子梁夢寅。則許令任意去就。而其餘則皆不許出。其中夢麟。以僧點茶。中書最爲愛重。恐其逃去。以母爲保。母雖年老。以此難歸云云。卽將各人姓名。書諸別紙以授調興。請於將軍。使之許還。但聞中書之子。年十五六歲以下二人。方在關白左右。爲其信愛云。恐其攔阻云云。聞刷還之令。知會倭京。若有願歸而隱接不還者。有重罪云云。

4日  以別紙列書士族被擄人表表者柳植、愼向、梁千頃子女等四十餘人。授調興送于伏見執政等處。各別分付刷出。

9日  送譯官崔義吉。帶同橘智正及板倉管下倭。往脅坂中書所在處。刷出金順命順興君、柳植、愼向、梁千頃子女等 及他被擄女人二十二名。女子六人、男丁一人。出來之後。還爲沒入云。不勝痛憤。其中有柳錫俊女子。自言父母兄弟。皆不推我。我雖出去。更何依乎。還爲入去云。甚可惡也。

12日 送康遇聖於界濱。被擄人等。或有來現者。遲疑未決。百般開諭。而已惑於引誘恐喝之言。不爲解惑。倭中事情。極可惡也。

13日 康遇聖自界濱還。僅募得十餘人。而亦不隨來。約以明日治行而來云。所謂粱夢麟。卽被擄久在伊豫者也。詳問四國事情。則伊豫以南道里甚遠。雖送人。今年決不可得還。伊豫以北則吾所詳知。吾當往刷來云。問被擄人在彼者幾許也。答曰。阿婆、淡路則不多。而伊豫則頗有願歸之人。雖不可預定多少。而吾若入去。則可以刷出二十餘人。但吾弟夢寅。時在伊豫。吾若作書。詳通於夢寅。且將諭文及執政文書。送於相識可信之人。與夢寅通諭刷來。則似爲便當云。

15日 招集被擄人落後者。被擄人置簿姓名者。臨行多逃去。不勝痛憎。只一百人乘船。令馬島備給散料上三船。六船上船者。自船給料。朴大根、安景福。臨昏下來。被擄人絶無形影云。有一抱兒女人。上船還逃云。可惡之甚也。

19日 有一被擄人。來謁願歸。而其主倭不許出給其妻云。中略 持銀買妻者。還逃不來。只推銀子而還。

20日 被擄人昌原居金開金稱名者來謁。自言十二三被擄入來。而不通一句話。特一倭人也。諭以還?之意。則答稱主倭方在江戶。俟還歸告。然後方可出去。二十餘年受恩之人。不可相負云。再三諭之曰。受恩輕重。孰與汝之父母。汝之被擄入來。告于汝父母乎。汝若還?。得見父母兄弟。則是再生之樂也。汝父母相見之樂。何可槪量。禽獸至無知也。鳥還舊巢。牛馬知家。矧以人而不如禽獸乎。傍有倭人。聽之咄嗟。此人頑然不動。欲殺而不可得也。大槪思歸者。稍有知識之士族及 此喫苦之人也。其餘有妻子有財產。已定其居。頓無歸意。可惡可惡。

答曰。有將軍之令。有執政之書。有願歸之人。各處主倭。容隱不出。馬島亦不盡心。雖久留此地。但勞無益。不如啓行之爲愈也。卽張帆出海。行到高崎。

22日 有被擄四人來謁。而一則自稱前繕工監判官朴佑。倭名休菴。爲僧。業醫在巖島。托於岩國太守吉川廣家。全羅道羅州人也。一則大邱人別侍衛安夢祥之子景宇。僧名卓菴。業醫。托於福島太輔之姪右衛門居廣島者也。一則全羅道金溝居人金承守之子玄鶴之孫應福。而倭名正三?。居廣島紙屋町者也。一則咸平廣橋居人夢傑之子木漢云。而木漢與軍官安景福。約以追到下關。自外已去。其餘三人。則招致眼前。出示諭文。懇懇開說。安景宇則頓無歸意。每托太輔不許。朴佑則自言非無向國之心。而在此島。逃去無路。適逢使臣之行。若得一隻舡。當還所居。携妻孥追及中路。有子女六七人。一女則在江戶將軍之側。一女則又在於廣家之側。若得本國文書。可以出示携來云。

25日 被擄人切無願歸者。

    被擄人男女幷六人來現。卽分上各舡。

26日 被擄人男女幷七人來現。分載各舡。

光海君9(1617)年10月1日  

被擄女一名。率女子。自唐津來現。載被擄人船。此人言朝鮮上官。來到唐津。募得被擄人數十餘人。雇船將載。渠則逃其主倭。

被擄人中有衣薄者十四人。寒凍可慮。令馬島備給寒衣。

2日  崔義吉率領被擄人四十四名。自唐津來到。

4日  博多守長政。送被擄人二十一名。

11日 被擄人三名

17日 馬島解送被擄人二 一名